【雑記】アスファルトの砂を払う

 僕は小さい頃、アスファルトの砂を払うことがなんとなく好きだった。でも、いつもそれをしているわけではない。じゃあどんな時にそれをするかというと、例えば運動会で他人の競技が行われている時や野外活動で誰かが話している時などだ。つまり一般化すれば、時間を持て余している時、ということになる。そう、僕は時間を持て余している時、アスファルトの砂を手で払うことが好きだった。

 砂を払う時にはちょっとしたルールがある。それは、払う区画をきちんと定め、その区画の砂を綺麗に払うということであった。仮に地面に線などが事前に引かれていて、すでに区画があればそれに則る。とにかく払うべき領域と払うべきでない領域の境界を定めようというわけだった。さて、実際にその領域を決めたら、あとは砂を手で払うわけである。(払うのは手でなくてもいいかもしれないが、道具を持ってくるのは面倒だし、何しろ目立つ。) 砂を払う方向はどうでもいい。大事なのはただ一つ、砂をその領域から出来るだけ取り除くことだ。僕は人の注意を出来るだけ引かないように、静かに、しかし妥協なく砂を払った。

 もちろんこの作業の最後には綺麗な砂のない区画が出現する。その上に何かを置いたりするわけではない。実際にそんなことしたこと一度もない。では、なぜやるのかということになるが、僕の友達が一度僕にそう聞いたことがある。確か僕はこう答えた。「たしかにこれは意味のない作業かもしれないが、ただやりたいんだ。」僕は20歳を超えた今ではこんなことはやらない。しかし、僕は砂は払わなくとも、意味のないように見える作業をよくする。長い間、こういうことを続けているとあることに気がつくようになる。それは、意味がないように見える作業は大きく分けて二つあるということである。そのうち一つは意味は無さそうだが、何か意味が後々生まれてくると予感できるもの。そして、もう一つはその予感さえできないもの。前者はなんとなく作業している時でも気分的に気持ちのいいものだが、一方の後者は気分的にはやりにくい。モチベーションが継続しにくいのだ。ただ、最近は僕は意味が生じるとも思えないようなことをよくしていると思う。これはここ1〜2年の自分の変化である。具体的な例はここでは述べないが、以上に述べたことは他人にはあまり理解されないことである。